Please reload

最新記事

I'm busy working on my blog posts. Watch this space!

Please reload

特集記事

FLY TO THE FUTURE−第1章 途方もない夢への離陸17−

August 7, 2018

それから約二ヵ月で荒れ地の整地が終了した。

 そこで、甲府練兵場の脇にあった格納庫を玉幡に移築する工事に取りかかった。

その際、以前の格納庫より五十坪増築して整備工場にし、さらに事務所と講堂を新築、次第に学校らしい形態を作っていった。

 その頃、民間の航空事業である愛国山梨飛行場は全国唯一の珍しい存在だったため、著名な人々の見学も多かった。止まりそうだった車輪でも少しずつ動き出すとだんだん加速して潤滑に回っていくように、飛行場建設にもよい流れが加速してきた。

 飛行場入り口に位置する競馬場跡地の甲府グランド約六万坪の土地を譲ってもいい、という話がきた。願ってもない話だ。甲府競馬場の社長早野金蔵氏が急逝されたので競馬場(甲府グランド)の持株一、〇〇〇株を購入しないかとの話があった義三は銀行等へ金策に歩き、早野氏の奥村後継者の釿介氏宅へ伺い競馬場の株と土地の売却を願い出したところ、国家危急の折、競馬という遊びの将来性を考慮し、全て売却に応じて頂けたのである。そのためにまた莫大な資金が要るが、義三は銀行頭取や貴族議員に必死で掛け合って融資を受けることができた。

 さらに、追加で隣接する約四万坪の土地の買収ができた。これは滑走路に必要な部分にあたり、義三は地主に何度もお願いに行っていた。地元の重鎮に仲介役を依頼し、一ヵ月かかってようやく土地譲渡の承諾を得るまでに漕ぎ着けたのだった。もっとも、これには義三が奥の手を使った。ある地主に交渉していたところ、なかなか首を縦に振らないことにいらだった義三は、その地主の家に隣接する空地へ肥溜の肥をぶちまける作戦に出たのだ。自分の家の隣地から肥の悪臭がぷんぷんしては堪らずついに地主は降参し、義三はこの土地を手に入れることが叶った。自分の欲しいものを手に入れるためにここまでする義三は、だだっ子のようでさえあった。

 義三の心意気に心服したという山梨出身の篤志家からの資金援助もあって、追加の土地取得などにかかる費用を工面することもできた。

 十分な用地を得たことに合わせて作業員もどんどん増やして、工事は進んでいった。格納庫の移築や滑走路建設なども順調に進んだ。

 そして、ついに飛行場完成のときを迎えた。

 昭和十三年のことであった。

 千メートルほどの決して十分な長さではない滑走路だが、幅はグラウンド並みにたっぷりとあったので、縦横にも斜めにも自由自在に滑走できる飛行場だ。その横に三棟の格納庫を設け、そのなかには陸軍や海軍から払い下げられた中古の飛行機が並び、その数も陸軍から譲渡されたサルムソン一機から十数機に増えていた。

 「やっとここまで来たか」

 義三は飛行場の真ん中に走って行ってひざまずき、地面に感謝し、天を仰いだ。

 熱い涙がこぼれてきた。それはあとからあとから溢れてきて、止まない。

 ここに至るまでに、どれだけ駆けずり回り、頭を下げてきただろう。

 多額の資金を工面し、慣れない事業ゆえに発生する幾多の問題に対応し、多くの支援を得て、今ここに山梨県初の飛行場が完成した。

 茫茫の荒れ地だった河川敷が見事な飛行場になったのだ。

 こみ上げてくる歓びを噛み締めた。

 だが、ほっとするのはまだ早すぎる。飛行学校運営のためにやらなくてはならないことが、まだまだたくさんあった。

 義三は滑走路の先を見つめて、気持ちを引き締めた。

− つづく −

Share on Facebook
Share on Twitter
Please reload

ソーシャルメディア

I'm busy working on my blog posts. Watch this space!

Please reload

タグから検索
Please reload

アーカイブ
  • Facebook Basic Square
  • Twitter Basic Square
  • Google+ Basic Square

 

​学校法人日本航空学園

 

〒400-0108

山梨県甲斐市宇津谷445番地

TEL:0551-28-3355

FAX:0551-28-3517